第354回結果補語
中国語は動詞も形容詞も名詞も全く変化したり活用したりしませんから、文法は比較的単純だとか簡単だとか言われますし、実際入門期だと文法は難しくないですよね。
でも中国語の「補語(补语 bŭyŭ)」は結構難しいです。具体的には、様態補語、結果補語、方向補語、可能補語ですね。
今日はその中から「結果補語」について少しお話したいと思います。
結果補語とは、ある動作を行った結果どうなったかを補う成分ですね。動詞の直後に直接くっつけます。例えば、分かりやすい例でいくと:
看完 kànwán(“看"という動詞に“完"という結果補語がついている)
「見る」+「終わる」→「見終わる」
说错 shuōcuò(“说"という動詞に“错"という結果補語がついている)
「言う」+「間違う」→「言い間違う」
こういった例は分かりやすいので、結果補語を教える時の例として必ず用います(笑)。でも実際、我々日本語ネイティブにとっては「これってどうして結果補語がついているんだろう」と不思議に思うようなものもありますね。例えば:
记住 jìzhù(“记"という動詞に“住"という結果補語がついている)
「覚える」+「定着する」→「覚える」???
“记"も「覚える」で、“记住"も「覚える」???どう違うの???
って思いませんでしたか?(笑)
僕も長い間よく分からなくて、“记"は「覚える」で“记住"は「しっかり覚える」というくらいの違いだろう、なんて思っていました(笑)。
でもそうじゃなかったんですね。
実は中国語の動詞は動作しか表わさず、結果までは表わさないのです!
それに比べて日本語の動詞は結果まで含んでいることが多いですよね?
例えば日本語の「覚える」という動詞は、「覚える」という動作(覚える内容を紙に書いたりブツブツ小声で唱えたり・・・笑)だけを表すこともありますが、記憶がしっかり定着するところまで表していることがほとんどだと思います。例えば「覚えました。」は「しっかり記憶した。」という意味です。「覚えるという動作はしたけど記憶として定着していない」場合は「覚えました」とは言いません。
それに対して中国語の“记 jì"は、「覚える」という動作しか表しません。しっかり記憶が定着したことを表すには“住zhù"という結果補語が必要なのです。ですから、「覚えましたか?」と尋ねる時は“记了吗?"ではなく
记住了吗?
Jìzhùle ma ?
と言います。
他にも例えば、面白い映画が公開されている時に友達に「見ましたか?」と尋ねたい場合は:
看了吗?
Kànle ma ?
でいいのですが、例えば風景を見ていて有名な岩か何かがあるとして、一緒に見ている人に「ほら、あれだよ、あれ!見えた?」と尋ねる場合は:
看见了吗?
Kànjianle ma ?
となります。なぜかというと、“看 kàn"という動詞は「見る」という行為しか表しません。だから映画を見たかどうかを尋ねるなら“看了吗?"でいいのですが、有名な岩については、風景の中の一点だけなので見つけにくいでしょう?見るという行為をその人がしているのは分かったとしても、ちゃんとその岩を認識できたかどうかわからない。だから「(岩が)見えましたか?」と尋ねるなら、中国語の場合「見てそれを認識しましたか?」という意味にしないといけないのです。
“见 jiàn"は結果補語として使われた場合「認識する」「感じ取る」というような意味になります。だから“看见"は「見た」ではなく「見えた」となるのですね。
動詞が結果までは表わさないなんて、日本語の世界に生きる我々には不思議ですよね。例えば「殺した」と言えば日本語だと相手が死んだという結果まで表します。でも中国語の“杀 shā"という動詞は、厳密には結果(相手が死ぬという結果)までは表わしていないらしいのです。だから“杀死 shāsĭ"というような表現があるのですね。これは“杀"に“死"という結果補語がくっついた形です。「殺して、その結果(相手が)死ぬ」なんて、日本語的には全くまどろっこしい!(笑)
以前も本メルマガでご紹介したことのある例文を、ここでまたご紹介しますね。
孕妇喝农药自杀,结果没死成。
Yùnfù hē nóngyào zìshā, jiéguŏ méi sĭchéng.
妊婦が農薬を飲んで自殺したが(?)、結果死ななかった。
「自殺したが死ななかった」って日本語ではかなりおかしい表現ですよね?だって日本語で「自殺した」と言えばその人は死んでいるはずです。でも「結果死ななかった」だなんて、目を白黒させてしまいそう(苦笑)。こういう場合日本語では「自殺しようとしたが死ねなかった。」と言うべきだと思います。
つまり中国語の“杀 shā"は「殺す」というより「相手が死ぬような攻撃をする」くらいの意味なのかもしれません。やはり結果までは表わさない、動作を表すのみなのですね。
“看完"の場合は「見る」という行為から「終わる」という結果が容易に想像できるわけではありません。だから「見終わる」と言いたいなら結果補語を使って補わなければならない、というのは我々にも分かりやすいですね。しかし「覚える→記憶が定着する」や「殺す→相手が死ぬ」のように当然想像できる結果でもきっちり言わなければ相手に伝わらないとは。。。日本風の「空気を読む」とか「相手の意向を汲み取る」というようなことが中国では通じないというのは有名な話ですが、こんな文法現象の中にもそれが見て取れるところが面白いです。
伊藤祥雄
1968年生まれ 兵庫県出身
大阪外国語大学 外国語学部 中国語学科卒業、在学中に北京師範大学中文系留学、大阪大学大学院 文学研究科 博士前期課程修了
サイマルアカデミー中国語通訳者養成コース修了
通訳・翻訳業を行うかたわら、中国語講師、NHK国際放送局の中国語放送の番組作成、ナレーションを担当
著書
- 文法から学べる中国語
- 中国語!聞き取り・書き取りドリル
- CD付き 文法から学べる中国語ドリル
- 中国語検定対策4級問題集
- 中国語検定対策3級問題集
- ぜったい通じるカンタンフレーズで中国語がスラスラ話せる本