2023.05.10
多言語情報

国際法務を取り巻く状況と法務翻訳の重要性

新型コロナウイルス感染症流行の状況が好転して世の中が落ち着きを取り戻し、ビジネスにも動きが戻ってきています。こうしたなか、弊社顧問でもある国際弁護士の樋口一磨先生に、国際法務の現場の状況や法務翻訳をめぐる課題についてうかがいました。

●プロフィール
慶應義塾大学法学部卒業、一橋大学大学院言語社会研究科修了、University of Michigan Law School, LLM 修了。Masuda, Funai, Eifert & Mitchell, LTD(シカゴ)勤務等を経て、弁護士法人 樋口国際法律事務所(現)を設立。
https://www.higuchi-law.jp/

「契約書」という予防線

―先生の目からご覧になって、現在の日本の企業の国際法務の体制は、いかがですか。
 
大企業では、インハウスの弁護士の数も増えるなど、体制の整備が進んできています。もっとも、英文契約書のレビュー、修正、そして交渉にも対応できるレベルの専門性を備えている法務人材となりますと、弁護士業界全体でも不足しているといえます。一方で、コロナ禍によって業務のリモート化が急激に進展し、国際ビジネスの選択肢が多様化した中で、コロナ規制が緩和されたため、国際法務のニーズは増えているといえます。

―いざトラブルになった場合のリスクは、国内よりも海外が相手になった場合のほうが大きいわけですよね。
 
海外で法的手続をとることは、コストがとても高くなるため、よほど大きな案件でないと費用対効果がそもそも見合いません。数千万でとんとん、数百万だったら費用倒れになりますので、泣き寝入り以外に選択肢はないという状況が生じます。そのため、実際に日本から外国企業を訴えるケースは限られます。日本の弁護士に代理人として相手と交渉してもらうだけなら、ある程度コストもコントロールしやすいし、もう一歩進んで現地の弁護士に代理人として交渉してもらう場合も、コストの上限を決めて臨むことができます。しかし訴訟や仲裁という法定手続を始めてしまうと、簡単に途中でやめるわけにはいきません。
 
また、日本国内の紛争では、弁護士は着手金と成功報酬という伝統的な方式も多く、予算を組みやすいのですが、海外の弁護士の場合、紛争系もタイムチャージでの対応が基本となり、さらにそれをマネージメントする国内の弁護士も併用する場合は、その弁護士も通常はタイムチャージになりますから、コストは青天井になってしまいます。さらに仲裁となると、弁護士のほかに仲裁人の報酬が1時間5万円程度かかります。つまり、こちらから訴えるのは、かなりハードルが高い。
 
 
―トラブルがそこまで発展しないように、予め十分に体制を整えておく必要がありますね。
 
法的手続というのは、いきなりそういう事態になるのではなくて、必ずその手前に話し合いがあって、それでダメな場合に「もう訴訟か仲裁しかない」ということになるわけです。そしてその「手前」で、よりどころになる唯一のものが契約書です。国内の場合、日本人特有の、よくも悪くも信頼関係をベースとする文化があって、契約書が手薄でもなんとか話し合いで解決する場合も多いかもしれません。ところが、言語も文化も考え方も全く違う相手と「言った」「言わない」という論争になると、契約書がすべてのよりどころです。ですから国際取引では契約書の重要性が一段と高いのです。皆さん、そこにどれだけコストをかけて注意を払っているでしょうか。
 
 
―予防という意味でも、契約書をよく読み込んで、できるだけ自社に有利なものを作っておく必要がありますね。
 
契約書をしっかり作ることの意義の9割は予防といえます。もちろん裁判になったときに有利になるということも大事ですが、裁判になった時点で相当な負担が生じます。そもそも紛争にならないように、そして紛争になったとしても法的手続に至る手前の交渉で有利に使えるように、という二重の意味での予防になります。
 
 
―契約というものに対する考え方は、我々日本人が考えている以上に国や地域によって幅がありそうです。
 
取引先によって契約書の重みが変わることは確かにあります。欧米には契約書を重視する文化があります。「契約書に書かれている」ことの重みが全然違うので、契約書に書かれていれば、すっと引いてくれることもあります。逆に、日本人にありがちな「そんなことは書かなくてもわかってもらっていると思っていた」という言い分は、欧米の企業には通用しません。「メールに書いてある」と言っても「契約書の条項に入っていません」と言われてしまいます。他方、アジアなどの新興諸国では、契約書に対する意識は低い傾向にあります。とはいえ、やはり契約書の記載が議論の出発点であることに変わりはありません。先方が契約軽視だからこちらもいい加減でよいということではなく、それならそれでとことん有利な内容にしておくことが、後で身を助けることになります。

弁護士のセカンド・オピニオンという考え方

―医療の世界には、セカンド・オピニオンという考え方があります。企業のみなさんにも、気軽に意見を求めることができる相談先があるとよいと思うことがあります。
 
紛争系などの案件では、弁護士によってかなり対応方針に違いが出てきますので、他の弁護士にも意見を求めることはかなり有効です。契約のような予防型の案件でも、どれくらい細かくクライアントのニーズや状況を汲み取って反映できるかは弁護士によって個性が出る、つまり差が出てきます。例えば、その取引の全体においてどの契約条項が大事かというバランスや重みを意識しながら、どの条件を死守するか、どの条件は譲歩してもよいかという交渉も意識したアドバイスをする弁護士がいれば、ただ平面的に字面だけを見て、これは問題、これはリスク、あとはご判断くださいと知らせてくるだけの弁護士もいます。後者のパターンは、弁護士にとっては楽なので、実際は結構多いと思いますが、クライアントの本当のニーズには応えられていないと思います。

専門家とともに万全の予防を

―コロナを取り巻く状況が改善し始め、企業のグローバルな活動が活発になりつつあるようです。
 
先ほども申し上げたとおり、コロナ禍にリモート化が進んだことで、中小・零細企業も国際ビジネスにチャレンジしやすい環境やインフラが急速に整いました。コロナ禍がなくてもいずれ整ったのでしょうけれど、コロナ禍が後押しして前倒しに実現する形になりました。引き続き対面の重要性は変わりませんが、コミュニケーションのほかオンラインでのパートナー探しや展示会のバーチャル環境での開催も可能になって、オプションが広がりましたね。越境ECの広まりについても既存のプラットフォームだけでなく、直販でも自社サービスを展開できるようになっています。「世界中がマーケット」という感覚を以前よりもたくさんの人が持つようになったのではないでしょうか。
 
 
—やはりそこで重要になるのは言語でしょうか。
 
はい。圧倒的に多い英語はもちろんですが、中国語、韓国語をはじめ、さまざまな言語が重要になります。特に英語によるコミュニケーションは大事で、ウェブサイトも英語でなければ話になりません。費用対効果以前に必要なものとして取り組む必要があると思います。
 
 
―インバウンドのほうはどうでしょうか。
 
世界からアジアを見ると、現在生じている地政学的なリスクを考えたときに、東アジアでのハブはどこが有望かというと日本なんです。台湾や韓国など近隣のアジア諸国と比較して、地政学的な安定感では、日本は圧倒的です。日本人の性格やビジネス自体への信頼感もありますしね。そういう流れのなかで、日本はマーケットでありつつ欧米から東アジアへ進出する際の拠点になっていけばよいと思います。また、ものづくりの拠点として新たな「世界の工場」になれば経済が活性化すると思います。
 
 
—台湾の半導体受託製造企業であるTSMC*が熊本に進出したりしていますね。
*台湾セミコンダクター・マニュファクチャリング・カンパニー
 
日本は物価の変動も加速しないし、労働紛争も少ない。ものを作らせたらいいものを作るという信頼感もある。海外企業の工場が進出してくれば、その関連企業もやってくるでしょう。日本人もそこで働くことができますし、税収にもなる。このように、これからの日本は観光とはまた別の「インバウンド」で道が拓ける可能性が大きいと思いますよ。
 
 
—そこでも言語に関する課題がいろいろありそうですね。
 
今までは海外から見れば、日本は距離的に遠いことに加え、韓国や台湾のように英語のコミュニケーションが期待できる国ではなくて、拠点をつくるインセンティブがありませんでした。つまり海外企業にとって、一番大きな参入障壁は日本語なんです。だからこれから外国企業が日本へ進出しようとしたとき、その外国企業のほうに日本法の法務や日本語への翻訳の需要が発生するのはもちろんですが、他方で、進出した外国企業と取引する国内企業のほうにも外国語対応の需要が出てきます。
 
—翻訳の現場では、いま機械翻訳の利用も増えています。
 
とりあえず意味が分かる、というレベルから、さらに進化してきていますね。法務の現場では、翻訳だけでなく、リーガルチェックもAIサービスの活用場面が広がっています。でも、重要な契約書では「てにをは」まで機械翻訳やAIレビューに頼りきることはできません。場面や目的によっての使い分けが必要だと思います。弁護士としては、たたき台やダブルチェックのツールとしての使い方が定着するように感じています。企業においては、参考とする限りでは活用してよいと思いますが、正式な書面とする場合は人の手で作業したほうがやはり安心だと思います。
—翻訳についてのご要望はさまざまなのですが、最近ではよりスピードを求められることも多くなりました。用途によって、内容や数字が合っていれば、格調高い表現や文章でなくなくてもいいですよというニーズもあります。
 
私たち法務の現場でも、正確さよりもスピードがほしいというニーズに接する機会が増えています。まずはラフでいいから数時間で第一回答がほしいというご要望も確かにありますね。
人間はスピードでは機械には勝てません。しかしその結果出てきたものが絶対に正しいかどうかはわからないし、それでは不十分な場合もあります。そのことをわかっていて、専門家である私たちのところへ来てくださる方々が私たちのお客さまです。成果物は本来どうあるべきか、何が足りないのかを個別具体的な状況に照らしえて判断し提供できることが、人である私たちのサービス価値だと思っています。
 
例えば、契約書が十分なものでなくても、あるいは契約書がなくても、価格や納期などの基本条件を口頭やメールで合意できれば、ビジネスはいったん進めることができます。ところが、そこでそのまま想定通り、双方にハッピーな状況で進めばよいのですが、どこかに食い違いが生じれば、とたんに契約書の精度が問題になります。ビジネスにおいて未来永劫うまくいくということはなく、経営トップが変わる場合はもちろん、担当者が変わるだけでも、ビジネスの環境が変わり、それまでの「信頼関係」が通じなくなることがあります。ですから、中長期的な観点でも契約書の品質は非常に重要です。それは翻訳にもいえることで、文書作成時点では機械翻訳でいいだろうと思っていても、実は翻訳品質が十分ではなく、有事の問題を解決できるものになっていないということがありえます。国際ビジネスに挑む日本企業は、そういう事態も想定したリスク管理をしていただきたいと思います。
 
 
―本日は、ありがとうございました。

聞き手:インターブックス広報企画室
撮影:松島 孝人